スリランカのテロ事件【90年代のメモワール】



復活祭だった昨日、スリランカで爆発が起きたというニュースを読んだ。クリスチャンがターゲットだったということだが、あまりに残酷な事件と、犠牲者の数の多さに驚き、胸を痛めている。


大昔にコロンボに滞在していたときにも、そうした事件があったことを思い出した。1996年のことだ。


当時もテロ事件が起きていて、そのためなのか海外からの観光客は少ないように見えた。なのに私は世界情勢にかなり疎く、そうしたことをあまり心配することもなく、冬の間をコロンボで過ごすことが多かった。

そのちょっと前までタイに住んでいた私には、観光客によって汚されていないコロンボを縁どる、荒々しいほどに美しいビーチの原石のような輝きが、少しばかり苦手でもあった。

タイのビーチにみられる華やかさや陽気さがなく、それまで見慣れていたインド洋と同じ海なのかと驚いたことを今でもよく覚えている。

私達は当時北欧に住んでいて、ちょうどそのときは、北欧からアエロフロートでコロンボに到着した。

機内で仲良くなったロシア人のクルーたち数人とマウントラビアのホテルに泊まって、遊んでいたときだと思う。



クルーのうちの一人が、たぶん酔っぱらっていたのだろう。バスタブで足を滑らせ、背中をひどく打撲して動けなくなり、病院に運ばれた。それで彼らは引き払ってしまい、取り残された私達は、海辺からそう遠くない、住宅街にある小さな家をしばらく借りることにした。

スリランカには、粋なインテリアをほどこした小さな宿があちこちにあって、滞在はとても快適だった。彼の姉家族も北欧からやって来たので、みんなで楽しく過ごしていた。

あるとき、散歩をしていると、大きなどよめき声が聞こえた。私は、とりあえず宿に戻るように言われた。男たちが様子を見に行った。

後から知ったところによると、目と鼻の先にある、デヒワラ鉄道の駅でテロ爆発が起きたということだった。爆弾の入ったスーツケースが列車の中で爆発したのだ。64人が亡くなって400人が負傷した大事件だった。

それで私達は、暗い気持ちを抱えたまま、いつも泊まっているタージサムドラホテルに移った。



当時の恋人だったその彼がコロンボ郊外に別荘を建てている最中だったので、すぐに北欧に引き返すわけにはいかなかったのだ。私も事件の詳細はよく分からなかった。もしもあのときにスマホやネットが手もとにあったら、私はニュースを検索しまくって怯えて一人で逃げ帰っていたはずだ。

街には銃を持った警官の姿が目立つようになった。

記憶は曖昧だが、間もなくして、私達は完成していない別荘で寝泊まりを始めていたような気がする。ガスや水道は通っていた。
しかし、パワークライシスと呼ばれる電力不足に島が襲われ、毎日4時ころから強制的に停電となった。夕食時なので不便で仕方ない。レストランはかろうじて開いているが、キャンドルの光を頼りに食事をする。知人宅でも同じことだ。

それでも眉を曇らせることはなかったのは、スリランカでの滞在にそれほど期待を抱いていなかったからかもしれない。いつも誰かがそばにいるし、スリランカ料理は美味である。あのときのキャンドルの明るさは、暖かな思い出となって、今でも忘れることができない。

知人には裕福層が多かった。夕食に招かれると、私達の食べる姿を、二階の格子柵から顔をのぞかせてじっと見てる小学生くらいの子供がいる。
きちんと正座をしてるので誉めると、あれは親と死別したタミルの難民の子供で、この家ではサーバント(召使)として雇っているのだと家の主は言った。

過酷な肉体労働をさせているわけでもないだろうが、胸がいっぱいになってしまった。引き取って養子にして育てるという考えはないのだろうか。

彼の別荘にも、難民となったタミル一家が同じくサーバントとして住み着いていたが、2人の娘はちゃんと小学校に通わせてもらっていた。お母さんは家事をして、お父さんは運転手をしている。毎日、お腹いっぱいに食べていた。4人で一部屋に住んでいたものの、幸せに暮らせていたと思う。

今はどこで何をしているのだろう。あの子たちは、今頃、どこかでお母さんになっているはずだ。

やがて彼とは別れてしまったが、数年前、SNSで私を見つけた彼が、誇らしげに、あの別荘の写真とリンクをSNS経由で送ってきた。今はホテルにしたらしく、たくさんの高レビューがついていた。

その後、たまーに他愛のない連絡が来るようになった。20年ぶりくらいに温かいメッセージを受け取ったときには、さすがに感謝が溢れ出したけど、私が他愛のない返事をすると、奥さんに見つかってすぐにプロファイルを消されてしまうようなので、返事は出さないことにしている。

前回の内容は、コロンボのヒルトンホテルの経営に加わったから、君もここに来て働かないか?という、意味不明のものだった。彼が経営者になったとは、あり得る話だが、かなり嘘っぽい。どちらにせよ、信じないし、興味はない。

今回の事故現場には、外国人客の多いホテルが3軒もあり、外国人も犠牲になったようで胸が痛む。地元の人も、旅行者も、みんなが無事でいて欲しいと思う。

スリランカではシンハラ人とタミル人の激しい内戦が続いていてテロ事件も多かったけれど、2009年には終結していた。






素敵な思い出もたくさん!田舎を探索していたら、ウロウロと集まってきた地元の子たち(笑)。離れないので、なぜか一緒に写真撮影。田舎の人たちは今でもこんなふうに素朴で人懐っこいのかなぁ。。。。。



テロといえばタミル、そしてタミルといえば、私の中では、やはり戦争難民でサーバントとなっていた、あの子供達のことだ。

一緒に過ごしているうちに家主の愛情と信頼を得て幸せな人生を歩んでいったと願わずにはいられない。

そしたら、ふと、こんな記事が目に入った。


2013年の記事より 

 ベンガル湾で悲しい事件が起きた。 オーストラリアに向けて発ったはずの船が、海の真ん中でエンジンの故障を起こしそのまま見捨てられたのだ。

船には120人のタミル人難民がいた。 インドの湾岸警備隊が保護したが、これが初めてのことではない。 仲買人がオーストラリア移住の夢を語り、市民権を約束して、難民からあるだけの金を巻き上げる。

そしていくつかの岸から小さな船に彼らを乗せ、海の真ん中で水と食料品を積んだ大型船に乗り換えるという話で釣るが、たいていの場合はそこで置き去りにされるのだ。

 船は沈没することもあるが、タミル人たちは、過酷なスリランカでの生活よりも、そうしたリスクを取ってでもインドに逃げようとする。 

タミル人のジャフィナという女性はジャフィナ地区に生まれ、早くに両親を戦争で亡くした。

1989年にジャフィナがタイガー(タミル人のテロ組織)の管轄に置かれると、彼女はコロンボに逃げた。そこで数年間ほど、一般家庭のサーバントとして働いたあと、カナダに移住しようと決心した。旅行会社に連絡を取り、偽造パスポートとビザを買うことができた。

他の5人と一緒に出国しようとしたものの、空港で止められて帰されてしまったが、半年後にシンガポールとNYを経て無事カナダにたどり着くことができた。

 ソース元IPCS (一部のみ大雑把に訳しました)



偽造パスポートとビザの費用は現在のレートだと日本円でおよそ200万円。飛行機のチケットやら何やらと、どうやってそこまで貯金できたのだろう?奇跡ではないだろうか!?

シンハラ人の家庭のサーバントとして働いていた独りぼっちの家族のない子供が、こんな大冒険を経て海外に無事に渡ってたくましく生きていた。

彼女のような例はごく少数なのかもしれないし、割と多いのかもしれない。でも、少なくとも1人はいたのだから、きっともっといるのだろう。

なんだか、心が暖かくなった。


今回はタミル派によるものではなかったようだが、これ以上、テロの起きない世界となることを祈るばかりだ。




    


   




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